2007年3月 - Oregonian Way Of Life.
2007年3月 - oregonian way of life.
どのくらいの人が認識しているか分かりませんが、書き方、重要です。同じような事を言うにしても、書き方を変えることでがらっと意味合いが変わります。ということをさきほど、マーフィーさんのコメントを読んで痛感しました。
>資料が無いから捏造だと言われますが、極秘資料が表に出てくるのは、かかわった方が亡くなってからか、良心の呵責にうたれたときくらいでしょう。しかも大半は処分されているかもしれないです。< (マーフィーさんのコメントより)
マーフィーさんのおっしゃるとおりかもしれません。でも、もし資料や証拠がないのなら、それらがない、ということを示せばいいだけの話です。例えば、
「日本に英語を広めるためにアメリカは戦後、NHKの英会話講座にどんどん財 政援助をした」
と断定すると、「証拠があってそう言ってるの?」ということになります。ところが例えば、
音楽の忠実度xが確認できます。「聞いた話しで確かではないけれど、英語を広めるためにアメリカは戦後、NHKの英会話講座にどんどん財政援助をしたらしい。まあ、戦後のGHQならやりかねない」
と言えば、「あ〜、そうかもね」ということになります。「聞いた話しで確かではないけれど」と前置きをし、「・・・・らしい」という推論口調をすることで、「どこに証拠がある!」というツッコミをふせげます。
マーフィーさんが、
「畜産業界の反発をかわすには、植民地に売りつける必要があり、みごとに選ばれたのは敗戦国、日本!」
と断定して言うから、「何を根拠にしてそう言い切ってんの?」という疑問が生じます。証拠がないの� ��断定し、「植民地に売りつける」や「敗戦国」などのセンセーショナルな言葉を使用すると、「マーフィーさんの目的は反米感情を煽り立てることか?」と思われるリスクがあります。
でも例えば、
トップ売り手DVD「『牛肉が心臓病の原因』などと政府が言うものなら、畜産業界からの反発は必至。アメリカ人の牛肉消費量を減らしても生産量を減らさないためにはどうしたらいいか・・・。その一つの解決策として、海外へ牛肉をもっと輸出しようということになったのではないか」
と言えば、推測していることを示しています。こういう書き方をすれば、「う〜ん、ありえる話だね」ということになります。
わたしは中西部と東海岸に去年、現在取り組んでいるプロジェクトの資料集めに行ったけれど、資料が100%完璧に集まったわけではもちろんありません。「こういう資料があればな〜」と期待しても、ない場合があるわけで。資料がなくて分からない部分は「分から� ��い」と示すしかないのです。例えば、ある食博覧会で、フィラデルフィア料理学校長がある食品会社のブースの飾り付けをしたという話。
トップランクの小売宝石店「料理学校長が飾り付けをさせてほしいと頼んだのか、食品会社の方から依頼したのかは分からないけれど、その学校長が飾り付けに興味を示していたのは確である」
という書き方をするしかないのです。本当は、料理学校長の方からアプローチを取ったことを証明する資料があると、テーマ上わたしには有利なんですが。
「資料や証拠がない=何を言ってもいい」ということにはならないし、資料や証拠がなくても物事を論じることはできます。証拠なしに推測で論じている、ということを示せばいいだけの話です。わたしは、「資料がないから捏造」だとは言っていません。でも、証拠がないのにあるがごとく断定するのは、捏造になるのかもしれません。それに、資料や証拠がないのにそのことに触れずに断定的な言い方をするから、「資料や証拠があるの?」というツッコミが入るのです。推測や想像で物事を論じるのは結構。ただし、きちんとそう示すなら。「あくまでも想像上の話だけれど・・・」や「真偽のほどは不確かだけれど・・・」など、便利な日本語を活用したいもの� �す。
要は、書き方の問題です。
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